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「違う発想をしろ!」 スティーブジョブズが世界に残した遺産とは

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(参考動画)

2011年10月5日世界のスティーブジョブズの死を受け、悲しみに包まれ、Appleの会社のそばにはたくさんの花が捧げられました。

スティーブは不可能を可能にしました。彼は偉大な野望を抱き常に自分はできると信じていました。また、「彼は完璧主義者であった」とスティーブジョブズを知る人物は語ります。

世界中はAppleが生み出す魅力的な製品に魅了され続けてきました。それは全て機械に魂を宿すスティーブジョブズのおかげです。

なぜ大学を中退した一人の男が世界でも数少ない大企業にまで成長させることができたのでしょうか。

今回はスティーブジョブズがAppleを錆びた車庫から始まった会社を超一流の大企業までに成長させた軌跡を辿っていきます。

スティーブジョブズ影響を与えた環境

スティーブはカリフォルニア州のサンタクラーラバレーという場所でごく一般的な家庭に養子として引き取られました。また、この土地の別名をシリコンバレーと呼びます。

この由来は、電子機器類の工場が数多く存在しているからです。近くにあるサンフランシスコはミュージシャンの町として有名でした。

この2つの文化を受けてスティーブは育ちます。幼かったスティーブは小さい時から頭の回転が早かったそうです。

大学に入るとスティーブはダニエル:カットキーという人物と出会い、彼はすぐに大学を中退します。中退後に彼は、今ある文化を否定するヒッピーへとなります。

スティーブとカットキーは実際にインドへ旅をしてLSDと呼ばれる一種の麻薬に手を染めたり、オレゴン州にある小さな農園でりんごなどを栽培して過ごしました。

そしてスティーブは今の社会は再編される必要があると思うようになり、この瞬間から彼は世界を変えるという野望を抱くようになります。

その後、彼は自分の家の車庫で精密電子機器の作成に取り掛かります。彼がまだ大学に在学していた時、彼はコンピューターを作る企業で働き、そこで彼の今後の人生を大きく左右する人物と出会います。ロン:ウェインです。

スティーブはDIYのコンピュータークラブに所属し、そこには当時はまだ少ないコンピューティングに関する知識人が大勢いました。

そこにいる人々は数々のソフトウェアなどを生み出しては周りに自慢するといったことをしていました。そしてスティーブはついに自分自身でコンピューターを作り上げます。

周囲からの反応は絶賛の嵐です。これが将来Apple1の原型となります。そして、スティーブとウェインでPCボードを20ドルで作り、40ドルで売るビジネスを始めました。

このビジネスはうまく行ったかは定かではないと当時の友人は語りますが、スティーブは将来いつか二人で自分たちの会社を作り上げる決意をしました。

1976年からはついにスティーブの車庫からApple1を本格的に売り出すようになります。

大勢の人々へ売るのではなく、試作品を作った時に周囲が欲しいと言ったので自分と彼らのために作ったとスティーブは語っています。

ビジネスをやろうと思ったのではなく、ビジネスに引き込まれた形でAppleはスタートしました。

1977年世界で初のカラー画面のコンピューターApple2が発売されました。それから3年間Appleは順調に売り上げを伸ばしていき、ついに小さな車庫から始まったAppleは世界にその名を轟かせたのです。

1980年代にはついに民間企業へと進出しますが、この快進撃がAppleを変えてしまいます。1980年代後半になるとAppleの売り上げは20億近くありました。

快進撃とは裏腹に、スティーブは今後のAppleを運営していくための十分な器を持ち合わせてないと周りから思われるようになってきました。

コンピューター市場はものすごいスピードで変化を遂げていました。1981年からはIBM社が出したコンピューターに圧倒されるようになり、AppleはたちまちIBMからナンバーワンの称号を奪われてしまいます。

Appleの苦境

Appleは市場の変化についていけずにいました。そこでスティーブはニューヨークにいるPEPSI者の社長、ジョン・スカリーを訪ねます。

そしてスティーブは15インチ離れたとこからジョンを見つめ、「俺と一緒に世界を変えないか?」と聞きました。ジョンは一緒に働くことを決意します。彼はマーケティングのプロでした。

彼はAppleがなにをすべきか理解していて、Apple2のCMをあと3年間続け、収入を得ることを進めました。Appleが出した他の商品は不発に終わりましたが、Apple2の収入が会社を継続していくのを可能にさせていたのです。

Macintoshの登場

Appleがまた市場で息を吹き返しナンバーワンの座に輝くには新しいコンピューターを作りあげる以外にありませんでした。

スティーブは新しいコンピューターを作り上げるために、Appleが持っている全ての技術を一つに凝縮させると決めたのです。そして三年という時間をかけ、Macintoshを作り上げていきます。

スティーブが目指す新しいコンピューターは誰でも使いやすく、また画面上にマウスとアイコンをつけることでした。

これは当時のコンピューターにとっては初の試みで、なぜこのような発想にいたったのかは、ある会社との接触が大きな鍵を握っています。

スティーブは地元の近くのゼロックス社を訪れました。そこでスティーブが体感したのは、枠にとらわれない自由な発想から生まれる素晴らしいアイディアの数々でした。

スティーブはゼロックス社に対してとてつもない興味を抱いていました。そこで、ゼロックス社はAppleに対して投資をし、スティーブをゼロックスへ招き入れたのです。

そして彼らはスティーブ達に様々な発明品を紹介しました。その中でも、最もスティーブらが興味を示したのが、マウスでした。

この機械はゼロックス社が発明したものではなく、彼らはただその機械を改良しただけでしたが、これは今まで誰も見たことがないものでした。

ゼロックス社のラリー:テスラーはスティーブ達にパソコン上をマウスで操れることを紹介したのです。

スティーブは自分が今目にしている光景を信じられませんでした。そして彼は興奮しながら「あなたたちはとてつもなく素晴らしいアイディアを手にしている!なぜこれで世界を変えようとしなのか?」と問いかけます。 

スティーブはこれからAppleがなにをすべきか分かっていました。それはマウスの製造です。

ゼロックス社はマウスをとても高価な値段でビジネス用品として販売していました。しかし、スティーブの考えは違い、部下たちにマウスを製造するための4つの条件を出しました。

1つ目は、15ドル以下で購入ができる安価なものにすること。 2つ目は、最低でも2年は使えるようにすること。 3つ目は、どのデスクトップでも使えるように作ること。 4つ目は、自分のももの上でも反応することであった。

スティーブは既に存在していたマウスの発想を自らの発想を加えて、現在私たちが使っているマウスを作り上げました。

また、スティーブは誰にでも使いやすいという新しいコンピューターを作る上で、デザインにもこだわりました。

スティーブは友人と東京へと飛び立ちます。東京は独自の高品質なテクノロジーでいっぱいでした。そのレベルの高い技術にスティーブは釘付けになります。

そこで、スティーブと友人はSONYの創設者である盛田昭夫と出会います。スティーブはSONYを大変気に入りました。

盛田はスティーブと友人に正式にリリースされる前のウォークマンをプレゼントしています。

ウォークマンを地元のカリフォルニアに持ち帰った後、スティーブは友人にもらったウォークマンをくれとお願いします。

「なぜ?」と聞くと分解して、どのような構造になっているか知る必要があるからだと答えました。

スティーブは完璧主義者だったため、予定していた日程よりも約2年後にようやく完成しました。そしてついに1994年1月に新しいMacintoshがスティーブ自身によって発表されます。

しかし、発表するまでに時間がかかったため、ライバルブランドがシェアを着々と広げ、IBMがコンピューター界を代表するブランドとなっていました。

そのため、専門家たちはIMBがいるのだから、新しいコンピューターを発表する意味がないと言い出します。

しかし、スティーブと彼の従業員は、「いや違う。あなたたちは分かっていないだけだ。消費者たちがこの製品を見たら絶対ほしくなるはずだ。」と反論しました。

Macintoshはスティーブが目指す理想形のものであり、このテクノロジーが人々の生活を変えるものであると信じていました。

Macintoshが発売される前までのコンピューターはとても使い勝手が悪く、まるでエイリアンが使うようなものでしたが、Macintoshは初めて誰でも簡単に使えるコンピューターとして誕生しました。

しかし、どんなに高性能で使い勝手が良くても、Macintoshは高価なものでした。他のブランドの製品に比べ、約10万円以上もの値段がします。

それでもスティーブはMacintoshが世界を絶賛の嵐で消費者は買うと思い、この予想は見事に現実の世界によって打ち砕かれてしまいます。

予想よりもおよそ半分も売り上げが下回ってしまい、これはAppleにとってとてもない大きな損害となってしまいました。

それでもスティーブは世界がいつかMacintoshの良さに気付く日が来ると信じ続けます。しかし、この伸び悩むMacintoshの売り上げを機に、次第にスティーブと他の従業員との間に溝ができていきました。

その中で、最も対立したのが、スティーブが代表取引締役に任命した、ジョン・スカリーです。スティーブとジョンはAppleの将来について対立しました。

次第に狂っていく歯車

ジョンはApple2の売り上げを重視し、会社の継続を考えていましたが、スティーブはMacintoshの価格を落とし、さらなるコンピューター市場でのシェア拡大を望みました。

ジョンはマーケティングにとても優れていて、いかに効率良くAppleを運営していくか分かっていましたが、スティーブには全くマーケティングに興味がありませんでした。

ジョンがAppleの運営の仕方について部長と話し合った結果、ジョンが部長の賛同を得て、逆にスティーブのやり方には賛同できないのでAppleから退くように命令を受けました。

彼がAppleを創設したのにも関わらず、退くことを命令された。これ以上の屈辱はありませんでした。彼はとてもない苦痛を味わいます。

11年後に取材した時も当時のことをスティーブは恨んでいます。「私は間違った人材を雇ってしまったとしか言いようがない。私が10年間積み上げてきたものを壊した。

だが、それが1番悲しいのではない。私が望んだAppleを見ることができずに、Appleを退かなければならないのが1番悲しく、悔しい」と。

一方で、ジョンは「私とスティーブの考えは真っ向から違っていた。私はApple2の売り上げを重視し、Appleの現状維持を考えていたのだが、スティーブはどうやったら世界を変えることができるのかを考えていた」と語ります。

予想外のクビを宣告された後のスティーブ

スティーブはAppleを恨み、自分なしでAppleが成功するはずがないと思っていました。また、Appleが自分なしで成功する姿を見たくはありませんでした。

自らが創設した会社をクビになっても、スティーブは弱音を吐きません。自らまたNextという独自のコンピューターブランドを創りました。

そこでもコンピューターを作り、売りに出しますが、売り上げは思うように伸びません。それでも、自身のコンピューターに対する美学は曲げませんでした。

スティーブは15億をつぎ込み、世界で初のコンピューターアニメーション制作会社Pixarを創立します。Pixarから作られたToy Storyが大ヒットし、それによってスティーブは一気に大富豪へと変身しました。

スティーブがAppleをクビになってから11年が経過したとき、コンピューター市場はものすごい勢いで変わっていました。

今度はmicrosoftがコンピューターの市場でシェアを広げていき、約90%のシェアを誇っていました。

これに対抗するために、Appleは他の企業がAppleのコピーを売ることを承諾し、シェアを広げようとしましたが、microsoftに対して全く歯が立たちません。

Appleは顧客がどんどんmicrosoftに取られていき、未来が見えなくなってきました。Appleは深刻な状況に置かれます。

スティーブはNextで強力なOSを作ることを心がけ、Appleはその強力なOSを必要としていました。

Appleは技術的な問題に直面していて、一方でNextは金銭的な問題に直面しました。両者はmicrosoftに対抗するために手を組み、AppleはNextをおおよそ400億でNextを買収したのです。

スティーブによって蘇るApple

Appleはスティーブに今どれほど深刻な状況に直面しているかを説明しました。一刻も早い、スティーブの助けが必要だったのです。

このままではAppleは大きな損害を生んでしまう危険性があります。スティーブによる思い切った決断により、Appleが断ち切れなかった負の連鎖を断ち切る必要がありました。

まずスティーブがやめさせたのが、他社へApple2のコピーを許可することだでした。これにより、大きな損害が生まれているとスティーブは考えたためです。

スティーブは自身がいいと思った考えはすぐに他に知らせました。

真夜中の2時に電話をかけ、アイディアを共有することさえあり、スティーブは自身が立ち上げたNextで培ったノウハウをAppleに教え込みました。

それは無駄なことは省き、重要なものだけに集中するということでした。これにより、Appleが製造していた数々の製品の製造を中止し、売上利益が見込める商品のみに焦点を当てたのです。

Appleの快進撃

イギリス人のApple従業員、ジョナサン・アイブは独創性にあふれた新しいコンピューターの試作品に取り掛かっていました。

それをスティーブに紹介したところ、iMacという斬新なネーミングとデザイン性や、インターネットへの接続のしやすさにスティーブは衝撃が走りました。

市場に出されたiMacは大ヒットし、Appleはたちまちコンピューター市場で息を吹き返したのです。iMacのデザイン性の高さはいままで全くコンピューターに興味がなかった人にも興味を与えました。

これからは人々から愛されるような製品を作っていかなくてはならないとスティーブは思うようになり、この「愛される」というワードが将来のAppleのモチーフとなっていきます。

Appleが起こす第二のテクノロジー革命

世界の消費者は新しい電子製品を求めるようになり、高性能なカメラやミュージックプレイヤーがよく売れるようになります。コンピューターはビデオなどを貯蔵できるほどに強力なものとなっていきました。

Appleは極秘に独自の電子機器の政策を始めました。これは将来、電子機器市場と私たちの生活に大きな革命を起こします。

小型で大容量のハードドライブと電子機器を合体させることにより、質の良いミュージックプレイヤーが作れるのではないかという発想からiPodが生まれたのです。

過去にマウスをより使いやすいように改良したように、ミュージックプレイヤーもすでに存在していたものでしたが、さらに良いものへと発想とデザイン性を加え、変えていきました。

生産の数にもこだわり、わざと供給を低くし、消費者がよりiPodを必要とするような状況を作っていきました。

次第に、iPodは世界で1番ミュージックプレイヤーへとなりました。たちまち、どこにでもiPodを所持している人を見かけるようになり、Appleを新しい市場の道へと導きました。

この時点では、iPhoneやiPadの作成のめどは全くありませんでしたが、もっと消費者に好んでもらえるような会社になる目標だけは続いていました。

世界へ羽ばたくApple

Appleは社会現象を起こすまでの会社へと成長し、独自のやり方で世界中にAppleストアをオープンしてシェアを広げていきました。

スティーブが手がけるAppleストアの内装は斬新で、Appleをより有名なものにしました。より消費者に受け入れられるような製品を作るという発想から生まれるApple製品は多くの消費者に受け入れられます。

「違う発想をしろ」というAppleの概念は次々に大ヒット商品を生み出していった。

Appleに新しい市場への道を切り開くある発想が生まれます。

それは、従来のiPodはただコンピューターにつなげて、iPodに曲を入れるだけであったが、デジタル化を機に「曲を売る」というビジネスを思いつきました。

これは音楽業界の問題点であったファイルシェアリングによって無償で曲がダウンロードされてしまう現状の解決策となります。

そこで生まれたのが、iTunesです。たちまちほとんどの大手音楽業界の会社はiTunesと契約を結び、最初の1週間で1億以上もの曲を売り上げました。

このビジネスは大成功し、iTunesの登場によりiPodの売り上げにもさらなる拍車をかけ、スティーブは未来の娯楽を作り上げました。

スティーブの集大成

スティーブは自分の人生について多くを語る人ではなかったが、2005年スタンフォード大学の卒業式で、珍しく公の場で、自分が直面している現状について語りました。

「約1年前、私はガンを発病していることを知りました。朝7:30にスキャンを撮ったところ、膵臓に明らかな腫瘍があることがわかりました。 医者は私に対して家に帰って、状況を理解しろと言いました。それは間接的に、死を覚悟しろと言うことでした。 幸運にも、膵臓にできたガンは、手術によって治すことが可能であることがわかりました。 そして私はその手術を受け、ありがたいことにも、私はガンを乗り越えることができました。(実際にはこれから6年間ガンで苦しむことになる)死は素晴らしい発明の1つです。 死は人生を変えるものです。古いものを排除し、新しいものを生み出します。あなたの時間は有限です。だからどうか誰かのために自分の人生を生きるような無駄なことはしないでほしい。」

スティーブが大切にしてきた哲学

スティーブの次の目標は、これまで培ってきたことを1つにまとめることでした。スティーブが次に生み出した製品は革新的でAppleを億万長者にさせるものです。

iPhoneはたちまち飛ぶように売れました。消費者はただiPhoneを電話をかけるのに使うのではなく、アプリを使い、これが他社との差別化を図ることができました。

iPhone1つで世界のほとんどのものを買えたり、ダウンロードすることができるようになり、まさに新世界への幕開けとなりました。

消費者がiPhoneを買った後もiTunesやアプリでお金を落とすので、Appleはとてつもない収入を得ることが可能になります。そしてついに、石油会社のエクソンモービルを抜かし、全米で総収入ナンバーワンの会社にまで上り詰めました。

スティーブは9ヶ月も腫瘍除去の手術を遅らせ、周りの反対を押し切り、ベジタリアンへと食生活を変えました。

そしてガンが進行し、スティーブはカリフォルニアで56歳で永い眠りについたのです。

「常に貪欲でいろ、常にバカでいろ」 by スティーブジョブズ